青山・表参道に佇むバーラジオ カクテルとフランス料理 尾崎浩司の世界
バーラジオのカクテルブックには美しいカクテルグラスの写真が多く掲載されています
バーラジオの歴史
ラジオの歴史
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ラジオの歴史
尾崎浩司 バーテンダー入門の頃
 私は2冊のカクテルブックを出版させて戴いております。ほとんどの方が私に「尾崎さんは立派な店で修業なさったのでしょうね」と質問なさいます。「どちらで?」と。私のカクテルは独学なのです。「すみません。独学です。」とお答えしますと、皆さんエッと驚かれます。次は「酒は飲めませんでした。」で、2度目のエッです。
 私は24才迄サラリーマンでした。地方都市です。文化度の高く無い土地柄で毎日が退屈で退屈で、ここでこのまま年老いて死ぬのかと思うと悲しくて、それで東京に出たのです。新宿のDUG(ダグ)というジャズ喫茶に求人募集の貼紙があり、ジャズ好きの私はそこでウェイター兼カウンター係として3年間働きます。ダグは夜になると酒を出しました。でも、ほとんどの注文はウィスキーの水割りという時代でした。1970年頃の事です。
 神宮前にラジオをオープンさせたのが28才、1972年です。ダグのオーナー、中平穂積さんが保証人となって下さって銀行からの融資も受けられたのです。モダンな内装の、センスの良い店なので洒落たお客様が集まって下さいました。洒落たお客様は注文もお洒落です。ギムレットだのドライ・マティーニだのと。此の辺りから私のカクテルの勉強が始まります。ちょっと遅過ぎる感じがしますが、当時の世の中としてはこれで充分早い方であったのです。先輩バーテンダーや親方に付いての修業期間を持たず、少しの書物と実験台になって下さる毎晩のお客様が私の先生でした。当時のお客様は手厳しく、厳しさは愛情や期待ゆえであったのですが、その皆様の厳しさによって私は段々と鍛えられて行きます。
 私は幼少時代より手先が器用でした。そして好奇心の強い子でした。実家は料亭です。簡単な料理は教わらずとも見覚えていました。高校2年になって、茶道と生花を習い始めます。かなり変な高校生でした。花街に育ち、最初の茶と花の師匠は元芸者であった老女です。この、茶と花に触れた事がバーテンダーとしての私に実に多大な影響を与えています。ただ美しいものが好きであった少年は茶道により美術、それも本物の生の美術、建築、造園などの素晴らしさを、衣装や器も質の高い工芸品をそれも実際に使うことの喜びというものを知ります。茶は総合アートを鑑賞するだけで無く、自らもそれに参加するという楽しさを教えてくれました。茶道は窮屈なお作法などではありません。知的ゲームをマナー良く皆で楽しむものだったのです。私が若く無知なままバーの経営者となり、何とか運営が続けられたのは茶道を経験していたからでした。茶では床の軸や道具類を選び、花を生け、菓子を用意して茶を美味しく点て、人を温かく持て成す稽古をします。本当の茶会ではこれに酒と料理が供されます。そして和やかな会話を楽しみ、客をくつろがせます。心地良い緊張感を漂わせ乍らです。
 Barは茶室に似ていたのです。違うのはBarは商売ですから料金を頂戴する事です。手先が器用で、茶道の持て成しを少し知っていましたので、バーテンダー修業というものを知らぬ私は、自身の不足分を工夫と知恵で何とか補おうと思いました。あとは現場での毎日が練習です。作って飲んでみる。飲んでみるのはほんの少しの、バー・スプーンに半分程ですが、最初の頃はそれだけで酔えました。それを繰り返し続ける内、カクテルの腕前と同じく、飲む方も少しずつ腕前が上がって行き、酒を飲める自分になった事が嬉しくてカクテル作りの練習に精出すのでした。その頃店名は只の「ラジオ」でした。「バー・ラジオ」と名乗るのは少し後の事です。
 当時の時代背景を少し。1972年為替レートは米1ドルが360円です。大学新卒の初任給は2万5千円位でした。ウィスキーのシーバス・リーガルやワイルド・ターキーが酒店で1万円位です。レモンは普通3個で千円。グレープフルーツは1個5百円です。ライムは未だ普通には売られていません。ゴードン・ジンは3千5百円程でした。ラジオはかなり洒落てスタートしましたので国産のジンで無く、最初からゴードン・ジンを使いました。ウィスキーの一番安いのがサントリー・オールドです。それでジン・トニックもウィスキーの水割りも1杯250円です。他の、いわゆるスナック・バーに比べるとちょっと高かったです。レモンは高価なので薄くうすくスライスしました。私は包丁が上手かったのです。
 ジン・ライムもギムレットも、フレッシュ・ライムが手に入らぬので、ビン詰めの緑色の甘ったるい液体を代用しました。サイド・カーは生のレモンを搾りましたが、コニャックとコアントローやグランマニエは高価過ぎて使えません。仕方無く、不味い国産ブランデーとオレンジ・リキュールで作りました。ナサケナイ時代でした。コニャックは安くても8千円以上です。1杯250円でも高いと言われた時代、とにかく輸入酒は高価で使うことが出来なかったのです。それでうんと味の落ちる国産の洋酒で、何とか美味しいカクテルを作ろうと頑張ったものでした。材料のひどさを腕前でカバーしようと、リキんでシェーカーを振った頃の時代がなつかしいです。お客様もそんなに上等の味はご存知無かった。でも、だからと言って手を抜かなかった私の姿勢を、心意気をお客様は買って下さったのだと思います。そして皆さんが応援して下さったのでした。それ迄のバーの概念には無かった型の店を私は作り始めます。酒の味を大切にするのは当たり前なのですが、それに加えてデザインとか、美の要素を店の中に取り込んで行ったのです。結果、クリエイターと呼ばれるお客様が増えました。作家、編集者、色々な分野のデザイナー、カメラマン、アーティストなどです。カウンターをはさんでそのような人達のお相手をするのは刺激的で面白い。つい自分もクリエイティブなバーテンダーでなければ、などと思い込むようになったのでした。
2007年7月 尾崎浩司


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